日本の近代化教育-ナショナリズム能力主義近代教育の発足その性格わが国における近代的学校制度は、一八七二年(明治五年)の学制に始まります。
明治新政府は内に統一国家を形成し、外に独立を維持するために、一八七一年、廃藩置県を行ない、徴兵制度(一八七三年)をしくもに、学校制度をのえるこに大きな力を注ぎました。
このき出された「被仰出書」には、「学問は身を立るの財本」考えて「邑に不学の戸なく家に不学の人」をなくすることを目標し、国民すべてに教育の機会を開く考えが示されていました。
当時、木戸孝允は、「真に我国をして一般の人智を明発し、以て国の権力を持し、独立たらしるには、僅々の人材出ずるも難かるべし
其急務なすものは只学校より先なるはなし」書き残しています。(「木戸孝允日記」一八七一年一二月一五日)
学校の設置は、文明開化独立の維持のための急務でした。
新政府はその構想を具体化すべく、学制取調掛を中心して、欧米の教育事情を調査し、学校制度をつくろうしたのです。
学制の発足の当時は学問教育は区別されず、学問=教育のすすめは自由な国摘帥酎聖民のすすめ考えられていました。
三田の文部省もいわれ、学制の成立に大きな影響力のあった福沢諭吉はその代表者のひとりです。
福沢は、学問は自然を統制し、人事を合理化し、一人ひとりの精神の独立自由を可能にするものであるべきだ考えていました。
このような学問観は、当然、わが国従来の学問のあり方への批判につうじていました。
わが国の学問は、儒教的観点による民心の統制政治支配のための教学にはかならなかったからです。
「我国の学問は所謂治者の世界の学問にして、恰も政府の一部分たるに過ぎず」「共学流も亦治者の名義に背かずして、専ら人を治るの道を求め、数千首巻の書を読み了するも、官途に就かざれば用を為さざるが如し」(『文明論之概略』一八七五年、岩波文庫)
学問は民衆の生活は無縁でした。
学問が治者の学であるかぎり、その学問の普及は当然一定の限度をもち、国民の平等化には役立たないばかりか、かえって被治者‖愚民を必要し、学問の発達もまたおしどめられる運命にあります。
「学問なるもの、西洋諸国に於ては人民一般の間に起り、我日本にては政府の内に起り」(同書)その独占物であることが問題でした。
彼が、政府による学問の独占をうれい、他方で、「日本には唯政府ありて未だ国民あらず」(『学問のすゝめ』一八七二-七六年、岩波文庫)慨嘆するき、学問の政府による独占国民の不在が裏腹の関係して考えられていたいってよいのです。
学問の官府独占の打破、すなわち、学問を国民のものにするいう課題は、同時に、主体的国民づくりの課題堅く結びついていました。
そして国民が真に学問・教育の主体になるこは、国民が真の政治主体になるこにつうじるものだ考えられました。
学問の普及は、本来、民衆の一人ひとりに、「独立自由の精神」をひらくことを志向するものです。
学問は、実学を旨し、民衆こそがその担い手ならなければならない考えられていました。
彼は「愚民の上に苛き政府あり」という西洋の諺を引いて、「これは政府の苛きにあらず、愚民の自ら招く災なり」「人民若し暴政を避けん欲せば、速に学問に志し白から才徳を高くして、政府相対し同位同等の地位に登らざる可らず
是即ち余輩の勧る学問の趣意なり」(同書)言っています。
福沢は、悪政には愚民が対応し、善政は、啓かれた国民がそれを支えることを指摘したのです。
したがってまた、福沢における「学問のすすめ」は、その学問の担い手、その主体たる「国民」の「発見」「創造」の課題の具体化して意識されていました。
さらに彼は、「権威を握る政府の力は恐ろしきものにして人心の内部までも犯して之を刺す」「宗教も学問も哲治着流の内に籠絡せられて嘗て自立することを得ず」(『文明論之概略』傍点筆者)のべ、学問の権力からの自由学問の国民化が「独立の国民」にって不可欠であることを指摘していました。
内面の自由独立の精神の主張はまた、宗教や教育の領域への国家権力の干渉の香定に通じていたのです。
「政府は政府たり、我は我たり、一身の私に就ては一毎の事錐ども山豆政府をして暁を入れしめんや」「況や政府にて、宗教学校の事を支配し、農工商の法を示し、甚しきは日常家計の事を差図して、直に我輩に向て善を勧め生を営むの道を教るがためにて銭を出きしめんするに於てをや、謂れなきの甚しきものなり」(同書)明快です。
ここに展開されている国家権力からの精神の自由の主張には、ヨーロッパの近代革命その精神に通ずるものを見ることができます。
ところで、学校制度は、それ以前になにもないころに新しいものを構想したの露柳柑掴ではなく、幕末までに発達してきた伝統的学校の再編成でもあ
ました。
ちなみに、当時、庶民の学校しては寺子屋があり、武士の子弟のためには藩校がありました。
また両者の中間的なものして郷学も各地に存在していたのです。
明治の改革はこれらを新しい学制のもに再組織しょうするものでもあったのです。
建物も寺院や民家が利用されました。
寺子屋の数は一万五千いわれ、最近の研究ではこれを遥かに越える推定しているものもあります。
しかし、すでにあるものの再編成だけでは質量もに不足しており、したがって新政府は、農民の土地を収用し、費用も民衆の直接負担を中心に、学校をつくっていったのです。
農民の土地争いや民衆の学校への反発はひろがり、学校焼打事件が数多く起こったいう事実があり、また一八七七年(明治一〇年)前後の全国平均就学率が三〇%に満たず、就学者も八〇%は一年以内に退学するいった状況があったことが、当時の学校が民衆にってもっていた意味を示しています。
学校は、庶民の生活要求から生まれたものではなかったからです。
新政府の強いリーダーシップのもに、近代国家の形成の手段して急速に発展してきたわが国の教育制度は、学制から教育令(一八七九年)、改正教育令(一八八〇年)試行を重ね、一八八六年(明治一九年)の森有礼文相の各学校令によってようやくその基礎が築かれました。
森は、小・中・大の学校を通して社会の新しい階層秩序を形成するこに期待しました。が、くに尋常・高等の二等からなる中学校を次のように性格づけました。
日く、「小学校尋常中学校ハ中等以下ノモノヲ教育スル所二外ナラザレドモ、高等中学校二至テハ頗ル異リ、之二学ブモノハ学科ヲ卒業シテ直チニ実業二就クモ、又ハ進ンヂ専門ノ学科ヲ修ムルモ、等シク社会上流ノ仲間二人ルベキ人ナリ」(一八八七年六月二一日宮城県での演説、傍点筆者)
学校制度は人材の養成・配分の装置して意識されていました。
この学校区分はまた、学問教育の区分に応じていました。
森は、「帝国大学ハ学問ノ場所ニシテ中学校小学校ハ教育ノ場所ナリ、高等中学校ハ半ハ学問半ハ教育ノ部類二属ス」したのです。
その教育は何か、森はこうのべています。
「教育ハ、教師等ノ薫陶二由リテ善良ナル臣民二成長セシムルノ謂ナリ、……教育ノ主義ハ専ラ人物ヲ養成スルニアリ、人物ハ何ゾヤ、帝国二必要ナル善良ノ臣民ヲ云ウ、其善良ノ臣民ハ何ゾヤ、帝国臣民ノ義務ヲ充分ニ尽スモノヲ云ウ、充分二帝国臣民ノ義務ヲ尽スパ、気質確実ニシテ善ク国役ヲ務メ、又善ク分二応ジテ働ク事ヲ云ウナリ」(海門山人『森有礼』一八九七年)

教習所対策にお困りですか?教習所をすばやく探せます。
教習所をお探しの方へ。教習所キャンペーンを実施中です。
教習所をご存知ですか?子供のための教習所グッズです。

合宿免許の正体が明らかになります。予約不要の合宿免許です。
独自のシステムで合宿免許に関する、合宿免許にうってつけの製品です。
独自のシステムで合宿免許の全てを網羅しています。今季大注目の合宿免許が登場です。